
私がまだ20代で会社員をしていた頃、ある取引先の社長がこんなことを言った。
「手狭になってから引っ越すんじゃ遅いんだよ。まだ早いかな、ってくらいで動くのがちょうどいい」
当時はピンとこなかった。まだ席も余っているのに、なぜもっと広いオフィスに移るのか。引っ越し費用がかかるし、家賃だって上がる。内心、「社長特有の見栄かな?」と思ったくらいだ。
ところが、その後も何人かの経営者を間近で見てきて、気づいたことがある。
彼らに共通していたのは、オフィスを「結果」ではなく「布石」として捉えていたということ。今回はそんな“やどかり社長”たちの話を書いてみたい。
まだ早いのに引っ越す社長たち
私が最初に出会ったやどかり社長は、当時勤めていた会社の社長だった。社員15人ほどの小さな会社で、雑居ビルの一室に収まっていた。
ある日、突然「来月引っ越す」と言い出す。別に人が増える予定があったわけではない。少なくとも、現場の私たちにとっては「なんで、今???」と疑問でしかなかった。
新しいオフィスは、前の1.5倍くらいの広さがあった。窓も高くなり、社員がランチを食べるテーブルとソファも大きくなった(そのスペースはリラクゼーションルームと名付けられた)。
引っ越した直後は、がらんとした空間に心細さを感じたものだ。「こんなに広くて大丈夫なの?」「家賃払えるのかな」なんて同僚と話した記憶がある。
ところが、半年もしないうちに新しいメンバーが3人入り、翌年にはさらに増えた。後から振り返れば、社長の頭の中にはすでに何らかの計画があったのかもしれない。しかし当時の私には、空間が先に広がって、そこに人が追いついてくる、という順序が不思議に思えた。
同じようなことは、取引先でも見た。30人規模の制作会社を経営していた社長は、私が知っている5年ほどの間に2回オフィスを移転していた。しかも2回とも、まだ余裕があるタイミングで動いている。
「窮屈になってから動くと、準備に追われて本業が止まるんだよね」
と、その社長は笑っていた。
やどかりが殻を替えるように、少し大きめの場所へ先回りして移っていく。あの頃は「ずいぶん儲かっているんだな」くらいにしか思っていなかったが、今ならわかる。あれは投資判断だったのだ。
「会社は器を超えて大きくならない」
やどかり社長たちと接するなかで、今でも強く印象に残っている言葉がある。別の取引先の、ある社長が言っていたことだ。
「会社はね、器を超えて大きくならないんだよ」
──器とは何のことだろう?オフィスのことか、資金のことか、それとも何かの比喩なのか。聞き返すと、その社長はこう続けた。
「物理的な器と、社長自身の器。その両方が大事なんだ」
物理的な器とは、つまりオフィスの広さや設備のことだ。いくら売上が伸びても、人を受け入れる場所がなければ組織は拡大しない。会議室が足りなければ議論は生まれず、集中できるスペースがなければ生産性も頭打ちになる。当たり前のようだが、目の前の売上に追われているとつい後回しになる部分でもある。
いっぽうで、社長自身の器を超えて会社が成長することもないという。どれだけ立派なオフィスを構えても、経営者の視野や度量が狭ければ、会社はそのサイズで頭打ちになる。逆に、小さなオフィスでも、それ以上に社長の器が大きければ、ポーンと会社が成長することもあるらしい。
そして、この2つは連動している。器の大きい社長ほど、早めに物理的な器を広げる。まだ必要ないタイミングでも、先を見据えて移転を決断できる。逆に器が育っていない社長は、目の前のスペースが埋まってから、慌てて次を探し始める。
器としてのオフィスが持つ力
この話を聞いてから、企業人としての私は、“オフィスを充実させること”に対して、好意的なポジションをとる社員となった。
社長自身の器を大きくするためには、社長にがんばってもらうしかない。間接的に社員が影響することは可能かもしれないが、基本的には社長自身の問題だ。いっぽう、オフィスならば、社員である私でもその器を大きくする余地がある。
そして、オフィスという器が持つ想像以上のパワーを、実感していくことになる。
たとえば、採用において、オフィス環境は候補者から非常によく見られている。面接に来た人が最初に目にするのは、事業計画でも決算書でもなく、エントランスの雰囲気であり、デスクの配置であり、働いている人たちの空気感。
狭くてモノがあふれたオフィスに通されて「うちは成長中の会社です」と言われても、説得力に欠ける。
逆に、人やモノの量に対して余裕を感じさせる空間からは、「これから人が増える」「この会社は次のステージに向かっている」と、無意識に嗅ぎ取られる。
もちろん、オフィスが既存社員に与える影響も大きい。雑多で手狭な環境では、物理的な窮屈さがそのまま心理的な閉塞感になる。増える荷物の置き場がないとか、隣の人との距離が近いとか、空調の効きが悪いとか──、そういう小さなストレスの積み重ねで、人間関係がギスギスすることさえある。
経営学の教科書には「オフィスを引っ越すタイミング」は書いていないけれど、やどかり社長たちはオフィスを着替えていく重要性を肌感覚で理解して、行動に移していたのだと思う。
とはいえ「大きくする」ことが常に正解ではない
ここまで読むと「じゃあ、どんどんオフィスを広くすればいいのか」と思われるかもしれない。が、話はそう単純でもない。
リモートワークが普及した今、オフィスの面積=会社の規模という図式は成り立たなくなった。コロナ以降、オフィスを縮小して固定費を下げ、その分を報酬や開発投資に振り向けた会社もある。
大事なのは、「オフィスを大きくすること」自体を目的にしないことだろう。面積を増やすのか、レイアウトを見直すのか、あるいはサテライトオフィスやシェアオフィスを組み合わせるのか。たくさんの選択肢がある。
自社の成長フェーズや働き方に合わせて、器の形を柔軟に設計し直していく視点が、今のやどかり社長には必要だ。単に大きな宿に住み替えていくだけではない創意工夫が求められる点が、現代の難しさであり面白さといえるのではないか。
先を見る目がオフィスに現れている
結局のところ、「オフィスを大きくしないと会社は成長しない」は正確ではない。大きくしなくても成長する方法はある。
ただ、あの頃のやどかり社長たちが持っていた「先を見て、先に動く」という感覚は、やはり本質を突いていたと思う。
彼らは別に広いオフィスに憧れていたわけではなかった。未来の会社の姿をイメージして、それに必要な環境を先に整えていたにすぎない。
「会社は器を超えて大きくならない」と言ったあの社長の言葉を借りれば、彼らは物理的な器と自分自身の器の両方を、意識的に育てようとしていたのだ。
「人は立場によって成長する」というが、「大きなオフィスを構える社長」という立場を自分に課すことで発破をかけ、自らを奮い立たせている面もあったろう。
私はもう会社勤めをしていないが、たまに仕事先のオフィスを訪ねると、あの頃の社長たちを思い出すことがある。会社の規模感に照らして少し豪華で、まだ空席のあるオフィスを見ると、「ああ、この会社は次を見ているんだな」と感じる。そしてその直感は、だいたい当たる。
オフィスは、経営者の視座が最も正直に表れる場所なのかもしれない。

この記事を書いた人

三島つむぎ
ベンチャー企業でマーケティングや組織づくりに従事。商品開発やブランド立ち上げなどの経験を活かしてライターとしても活動中。
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