
社長夫人から預かった出張のお土産である菓子折りを、総務部に届けに行った。
「お疲れ様です。あっ、これ、マナミさんからのお土産です。みなさんでどうぞ」
夫人の名前を出した途端に、空気が変わった。さっきまでの和やかさが、すうっと引いていく。あぁ、やっぱりですか。
体感温度が下がっていく中で、私はあえて明るく、勢いよく
「いやぁー、どうもどうも。大変お騒がせしておりまーっす」
と、切り出した。相方が不祥事で文春砲をくらったお笑い芸人の要領だ。
しかし、空気は温まらない。
「で、結局、どうなるんですか? 今回もマナミさんはお咎めなしなんですか?」
「経費の三重請求は、もし他の社員がやったら懲戒処分ですよ。あの人はミスばかりしてるのに、社長夫人だからという理由で毎回お咎めなしなのは、おかしくないですか?」
「ミスをしたのは自分なのに、自分がちゃんとできないのは社員の教え方が悪いと責任転嫁するなんて、人間性を疑います」
あぁ、これが正論で殴られるというやつか…。
若い子たちの言葉はド正論だ。グゥの音も出ない。
ことの発端は、今月初めの出張だった。
社長夫人のマナミさんは、飛行機代の領収証(約5万円のもの)を、時期をずらして3回、経理に提出したのだ。本来は5万円のところを、15万円分請求したことになる。
その過失に気がついたのは、経理担当の女性事務員だ。
いつもより低い声で「すみません、マナミさんに話があります」と内線をかけてきた。あいにく出張中だったため、戻ってきたら向かわせると約束した。
「えーっと、また何かしでかしちゃった?」と聞いてみたが、「えぇ、ちょっと。本人と直接話しますので」とかわされ、内容は教えてもらえなかった。
しかし、電話口の声の様子から、いつもより大きな失敗をしでかしたことが予想できた。
私の上司で、社長夫人のマナミさんは普段から失敗が多い。数年前から夫の会社を手伝いにきているが、それまでまともな就労経験がなく、世間知らずなのだ。
そんな彼女の会社での肩書きは「アートディレクター」で、彼女の気質を良いように表現すれば「クリエイターらしく浮世離れしている」のだが、悪く言えば「常識がなく、当たり前のことが当たり前にできない」のだった。
こういうことはさっさと済ませた方が良いだろうと、社長夫人が出張から戻るなりすぐ、私は彼女を経理部に向かわせた。すぐに戻ってくるだろうと思っていたら、30分経っても帰ってこない。
「これは、ひょっとしてマズイことが起こっているのでは…」と気を揉んでいたが、帰ってきたマナミさんは、意外にもスッキリした様子だった。
「ちょっとしたうっかりミスなのに、経理の子がめちゃめちゃ怒ってた。そんなに怒らなくてもよくない? 過去のことまで持ち出して『あなたは社会人として常識がない』なんて言うもんだから、こっちも腹が立って、ずっと言いたかったことを言ってやったわ」
言いたいことを言ってやった? へ? あんたが悪いのに?
「もちろんミスしたのは悪かったわよ。最近あんまり忙しくてボーッとしてたから、つい間違えちゃったの。だけど、そもそもあの子の教え方が悪いのが大元の原因じゃないの。
いつも態度が冷たくて怖いから、分からないことを聞きたくても聞けないし」
ファッ?!
経理の子は、確かに口が悪い。愛想が良いとも言えない。早口で、仕事の教え方も「ついて来れるか? この俺のスピードに!」と言わんばかりの疾走感がある。
だから私も最初はとっつきにくかったし、彼女から仕事を教えてもらうのはまぁまぁ大変だった。
けれど、「仕事ができる」と認めてもらえれば打ち解けてくれるし、分からないことを素直に聞けば、分かるまで何度でも根気よく付き合ってくれる人なのだ。
真面目で几帳面、実務能力も高い。そんな彼女が問題にするのは、筋が通らないことだけだ。
それなのに…
「私がちゃんとできないのは、あなたがちゃんと教えてくれないからよ!」
「分からないことがあっても質問しにくい雰囲気を作っているのはあなたでしょ?
あなたの冷たい態度に、私はずっと傷つけられてきたわ」
いつの間にか、三重請求という重大な過失を犯した当事者が、「必要な業務を適切に教えてもらえないハラスメント」の被害者として振る舞っている。
しかも、この一部始終を聞いていたのが、社内一のおしゃべり社員だったのだ。話が全社に広まるのは、あっという間だった。
私はとりあえず、「マナミさんのレシート類は、これから私が全部チェックするから」と申し出て、再発防止でこの件を収めようとしたが、甘かった。
「もう、無理です」
言い争いから数日後、経理の子は異動を願い出た。
「起こったことについては、もういいです。再発防止案も了承しました。ただ私は、もうマナミさんとはやっていけません。ご自分が覚えていないことは、私が教えていないから。ご自分が理解されないことは、私の教え方が悪いから。そんな風に仰る方とは一緒に働けません」
会社はその希望を受け入れて、後任の求人を出すことになった。
総務部で若い子たちの正論を浴びながら、それでも私は庇ってみた。
「あの人に『常識』とか求めちゃダメだって。そういう『真っ当なこと』は求めないであげてよ。感性で生きているクリエイターなんだから。実際、彼女にしかできない仕事もあるんだし」
しかし、返ってきたのは、もっと冷たい視線と厳しい言葉だった。
「フリーランスとして、デザイン系の仕事だけに関わる立場ならその理屈でもいいですよ。でも、違いますよね?
経営者の一人としてこの会社に居るなら、マナミさんのやっていることは許されないし、彼女に甘い会社側のガバナンスも問題じゃないですか?」
ゴフッ。若くて青い正論がみぞおちに決まった。
もう何も言わない方がマシだ。庇おうとすればするほどドツボにはまる。
昔は、クリエイターの「ある種の欠落」に対して、社会はもっと寛容だったと思う。感性で生きている人間が実務に疎いのは、「そういうものだ」と許された時代もあった。
それに、創業が昭和の地方の同族企業なんだから、身内贔屓や理不尽も「ある程度しょうがない」とも思っていた。
どうやら私は、その「しょうがない」を、いつの間にか内面化していたらしい。
しかし、30代以下の若い子たちは違った。ガバナンスとかコンプライアンスとかいう言葉を、ごく自然に、基準として持っている。理不尽を飲み込んで踏ん張ることを体に染み込ませてきた氷河期世代の私とは、受けてきた教育が根本から違うのだ。
今回の件で、真に問題だったのは三重請求そのものではない。
社長夫人に実務能力がないことは、社内でとっくに共有されており「今さら言ってもしょうがない」話だからだ。
今回の一件で、これから本当に効いてくるのは「信用の失墜」だろう。
彼女は、自分より一回り以上も年下の社員に対して感情的になり、自分が犯したミスへの真摯な反省を見せず、責任を転嫁した。
しかも、それを社内一のおしゃべり男の前でやったのだ。
社長夫人を、ずっと守られて生きてきた一人のナイーブな女性として見れば、理解できるし、哀れにも思う。だが、会社の役員としては、どれもこれもあり得ない振る舞いだ。
若い社員たちが、そんな彼女を「自分たちの上に立つにふさわしい人」として受け入れることは、もうないだろう。そして、彼女を特別扱いし続ける会社そのものも、社員からの信用と忠誠心を、静かに、確実に失っていくのではないか。
組織というのは、そういうところから壊れていくものなのかもしれない。

メルマガ限定で配信中
プロが教える“オフィス移転の成功ポイント”
- 組織づくり・ワークプレイスのトレンドを素早くキャッチ
- セミナーやイベント情報をいち早くお届け
- 無料相談会やオフィス診断サービスを優先的にご案内!
この記事を書いた人
マダムユキ
ブロガー & ライター
https://note.com/flat9_yuki
組織力の強化や組織文化が根付くオフィス作りをお考えなら、ウチダシステムズにご相談ください。
企画コンサルティングから設計、構築、運用までトータルな製品・サービス・システムをご提供しています。お客様の課題に寄り添った提案が得意です。
