
「時代劇に出てくる、あの越後屋?」
「なぜ今、江戸時代の話?」
タイトルを見てそう思われるでしょうか。
しかし、越後屋の創業者・三井高利は、かのドラッカーも絶賛するマーケティングの天才。世界に先駆けて本格的なマーケティングを「発明」した人です。
彼はビジネスの大変革を成し遂げただけでなく、店舗移転を契機にビジネスモデルや顧客戦略を見直し、最適な立地で新たな事業、ブランディングに取り組みました。
「越後屋、おぬしも悪よのう」というフレーズがついてまわるのは、その負の部分です。
そもそも彼の人生は、華やかなサクセスストーリーには収まり切れないもの。
むしろ「その時」がくるまで、20数年もの間、辛抱強く耐え忍んだ人なのです。
そうした側面にも目を向けながら、天才経営者が行った革新的な店舗移転にフォーカスし、オフィス移転の原点を探ります。
この音声コンテンツは、そしきlabに掲載された記事の文脈をAIが読み取り、独自に対話を重ねて構成したものです。文章の単なる読み上げではなく、内容の流れや意図を汲み取った自然な音声体験をお届けします。
※AIで作成しているため、読み上げ内容に一部誤りや不自然な表現が含まれる場合があります。
ドラッカーは何を絶賛したのか
ドラッカーは著書『マネジメント』の中で、こう述べています。*1
1650年頃、今日の東京に進出してデパートの原型となるものを開店した三井家の人間によって、マーケティングは発明された。
それはどのようなビジネスだったのでしょうか。
世界初の定価販売を推進
現三越伊勢丹ホールディングスの前身である「三井越後屋呉服店」は1673年、江戸随一の商業地であり呉服街だった、江戸本町1丁目(現在の中央区日本橋高石町)に店舗を構えました。*2
次いで仕入れ店を京都に開き、本格的なビジネスを開始。
当時の商人にとって理想とされた「江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)」を実現しました。
それ以降、従来の商慣習を打ち破る新機軸を次々に打ち出します。
彼が編み出した画期的な商法の1つが「店前現銀無掛値」(たなさきげんきんかけねなし)、世界初の「正札現金販売」です。*3
三井越後屋呉服店のある呉服街には公儀御用達の有力な呉服屋が集まっていました。*4
主な顧客は高級幕臣や諸大名。その屋敷に商品を持ち込み、大規模なビジネスを営んでいたのです。
しかし、武家の財政がひっ迫していた当時は、武家屋敷での入札制度でも次第に安く札を入れることが多くなり、呉服商同士の過当競争が厳しくなります。
たとえ落札できたとしても利益は薄く、それまでのような武家屋敷への出入りによる商法では、もはや採算がとれなくなっていました。
しかも支払いは、盆・暮の二節季払い、または12月のみの極月払いの掛売り。*5
その結果、貸倒れや掛売りの金利がかさみ、資金の回転も悪かったのです。
高利はこの制度を廃止します。
店前売り(店頭販売)に切り替え、商品の値段を下げて正札をつけ、定価での現金取引を奨励しました。これなら、不特定の客を相手にできます。

出所)Tokyo Museum Collection「駿河町越後屋呉服店大浮絵 奥村政信/画」
https://museumcollection.tokyo/works/6238186/
上の図1は、越後屋呉服店の浮世絵ですが、店内の欄間の下には、「現金かけねなし」の札が下がっています。*6
新たな顧客層の取り込み
それだけではありません。
呉服商の間ではタブーだった「切り売り」も断行。当時は1反(幅約37㎝、長さ約12.5m)単位の取引が常識でしたが、客のニーズに応じて切り売りし、江戸町民の大きな需要を掘り起こしました。*5
急ぎの場合には、礼服などをその場で職人が仕立てて渡すというイージーオーダー「仕立て売り」も評判をとります。
さらに、呉服物のそれぞれに専門の手代を配したサービスも提供。スペシャリストが客の要望に応えて、アドバイスをしたり、商品をみつくろったりしました。*4
このようなサービスの1つひとつが江戸の人々の信用につながり、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにしたのです。
ドラッカーは、越後屋のマーケティングについて、以下のように述べています。*1
シアーズ(アメリカの百貨店)の250年前に、顧客のためのバイヤーとなり、顧客のために製品をつくり、顧客のために仕入れ先を育てた。返金自由とし、多様な品揃えを旨とした。三井家は、当時の社会変化が、新興ブルジョアジーという新たな顧客層を生んだことを見逃さなかった。
越後屋はやがて江戸町人から「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日千両の売り上げを上げるほど繁盛しました。*5
店舗移転と新規事業の開始
しかし、これまでの慣習を破った新商法は、同業者からの反感をかいました。
現在なら当たり前でフェアな商習慣ですが、リアルタイムで大変革を目の当たりにした当時の同業者にとっては、その価値観は理解しがたく、掟破りも許せなかったのでしょう。
やがて激しい営業妨害を受けるようになってしまいます。*7
そのため、越後屋は1682年に隣町の駿河町(現在の日本橋室町2丁目)へ店を移転させました。
店舗設計のリニューアル
下の図1は、駿河町に移転した後の越後屋呉服店です。*8

出所)国立国会図書館デジタルコレクション「広重画帖」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1308381/1/1
従来は間口が狭く奥行きの長い店構えが一般的でしたが、越後屋は間口を広くとっています。
広くとった間口は、横並びで大勢の客をさばくのに適していました。*4
上述のような革新的な商売を可能にしたのは、資本力を活かした大型店舗。
店舗移転を機に、自らのビジネススタイルにより適した店舗設計に刷新したのです。
両替店を開店
駿河町に移転した翌年の1683年、高利は店舗を拡張し、「越後屋三井両替店」(三井住友銀行の前身)を開店しました。*7
その3年後には、仕入れ店のある京都にも両替店を開きます。
実は高利には両替商の経験がありました。
彼は伊勢松坂に生まれましたが、兄たちに続いて14歳のときに江戸に出て、長兄の営む呉服店で奉公します。*9
ところが、その抜群の商才を脅威に感じた長兄に疎まれ、母の面倒をみるように言い含められて帰郷を余儀なくされました。*5
江戸に出てから14年目、28歳のときのことです。
松坂に戻った高利は家業を拡張しつつ、江戸で蓄えた資金を元手に金融業を営み、静かに江戸進出を待ちました。*9
そして、長兄の逝去をきっかけに江戸への進出を許されたのは、なんと52歳のとき。当時は晩年といってもいい年齢です。
そんな高利にとって店舗移転は、長年あたためてきた江戸での両替商を実現する、またとない好機でした。
江戸時代、大都市の両替商は、今の銀行と同様に金融機能を担い、社会全体を支える役割を果たしていました。*10
三井両替店は、なかでも高額貨幣を扱う「本両替」として全国規模で巨額の資金を動かす大資本となります。
幕府に為替の仕組みを提案
高利はさらに、両替店を活用した為替でも商才を発揮します。*7
江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の「御用為替方」も務めるようになったのです。
当時、上方は銀建て、江戸は金建てでした。
金貨は額面のある計数貨幣、一方の銀貨は重さを量って使う幣量貨幣です。*11
越後屋は京都に仕入れ店があるため、その代金を送金する江戸では、貨幣相場や為替の動きを注視する必要がありました。*7
一方で幕府も、西日本の直轄領の年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、その現金を江戸に輸送していました。
しかし、現金輸送はコストがかかるだけでなく、危険が多く不便です。
そこで高利は幕府に対して、現金輸送に代わる方法として為替の仕組みを提案します。
この公金為替は幕府の大阪御用金蔵から公金を受け取り、これを60日~150日後に江戸城に収めるというもので、三井両替店は大阪で委託された額を越後屋の売り上げから収めました。
公金に利子はつきませんが、その運用による利回りは相当なものでした。
江戸・京都・大阪の3都にまたがる営業基盤を確立
三井は1691年、幕府から「大阪御金蔵銀御為替御用」を命じられ、同年、大坂に呉服店と両替店を開きました。
これによって、江戸、京都、大坂の3大都市で商売を展開するようになり、各店は商品流通網・金融ネットワークの拠点ともなっていきます。*10
こうして、高利の越後屋は3都にまたがり営業基盤を整えていったのです。*7
この為替御用方は明治維新で幕府が倒れるまで続き、三井銀行(現在の三井住友銀行の前身)の母体となりました。

出所)三友新聞社 三井広報委員会「資料でみる三井 江戸期編」
https://www.mitsuipr.com/history/columns/029/
三井両替店が幕府の為替御用方としての地位を確立した背景には、幕府の御側用人の力添えがありました。
時代劇でよく使われる「越後屋、おぬしも悪よのう」というフレーズは、そうしたことへの世間のそねみが背景にあるのかもしれません。
ただし、三井は幕府に重用される一方で、その幕府に苦しめられてもいました。*10
富を蓄積している大商人に対して、突然、用立てを命じて金銀を吐き出させる、幕府の「御用金」が度々課せられたからです。
オフィス移転の原点とは
これまでみてきたように、越後屋は店舗移転を機に店舗を拡張して発展し、京都・大坂も含めて3都にわたる事業基盤を築きました。
特に注目すべきは、呉服商から金融業への進出を、店舗移転を通じて実現した点です。
越後屋にとっての店舗移転は、同業者の営業妨害を避けるためのものでしたが、それは決して「受動的な対応」ではありませんでした。
それどころか、移転と同時に店舗設計を刷新し、事業モデルの転換・組織機能の再編を果たすという、チャレンジングな戦略行為そのものだったのです。
現在の企業においても本社オフィスの移転は、コストや効率の議論にとどまらず、社会的な環境変化への適応や新規事業への布石、さらにはブランドの再構築を伴う重大な経営判断です。
店舗移転に伴う越後屋の戦略は、現代企業が直面するオフィス移転の原点といえるのではないでしょうか。
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資料一覧
*1 P・F・ドラッカー著 上田惇生『マネジメント [上] 』 (2008)ダイヤモンド社(電子書籍版)p.108 <1・*4 キャプチャ>
*2
出所)三井住友トラスト不動産「日本橋」
https://smtrc.jp/town-archives/city/nihombashi/p05.html
*3
出所)三越伊勢丹ホールディングス「三越のあゆみ」
https://www.imhds.co.jp/corporate/business/history/history-mitsukoshi.html
*4
出所)井原西鶴 堀切実 訳・注 『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』 (角川ソフィア文庫)(2013年) 株式会社KADOKAWA (電子書籍版)No.3769, 3799, 3812
*5
出所)三友新聞社 三井広報委員会「越後屋誕生と高利の新商法」
https://www.mitsuipr.com/history/edo/02/
*6
出所)Tokyo Museum Collection「駿河町越後屋呉服店大浮絵 奥村政信/画」
https://museumcollection.tokyo/works/6238186/
*7
出所)三友新聞社 三井広報委員会「暖簾印を定め、両替商へ進出」
https://www.mitsuipr.com/history/edo/03/
*8
出所)国立国会図書館デジタルコレクション「広重画帖」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1308381/1/1
*9
出所)三友新聞社 三井広報委員会「三井高利」
https://www.mitsuipr.com/history/people/01/
*10
出所)三友新聞社 三井広報委員会「資料でみる三井 江戸期編」
https://www.mitsuipr.com/history/columns/029/
*11
出所)造幣局「江戸時代のお金のしくみ」
https://www.mint.go.jp/kids/try/shikumi
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