多様性が一周回って没個性になっているオフィスは嫌だ。と思った話。

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新しいプロジェクトで他部署の人たちと会議をしていたとき、違和感を覚えた。

参加者は見事に多様だった。年齢も性別も国籍もバラバラ。まさに「ダイバーシティ推進企業」の理想的な光景だったはずなのに、なぜか全員が同じような発言をしていた。

「多様な視点を活かして」「インクルーシブな環境で」といった決まり文句が飛び交い、誰一人として尖った意見を言わない。提案に対して異論を唱える人もいなければ、独自の切り口で問題を捉え直そうとする人もいない。まるで、見えない台本に沿って演じているかのようだった。

これって、本当に多様性なのだろうか。たしかに見た目は多様なのに、中身は驚くほど均質なのだ。

「多様性」に支配されるオフィス

現代のオフィスは、多様性という名のチェックリストに支配されている。採用では性別・年齢・国籍のバランスを重視。会議では全員に発言機会を与え、プレゼンテーションでは多様な立場の人々への気遣いが満載だ。

一見すると素晴らしい取り組みに見えるが、実際には個人のユニークな特性や能力よりも、カテゴリーへの所属が重視されがちである。そのほうが、取り組みがわかりやすいからだ。数値として報告しやすく、対外的にもアピールしやすい。

「女性であること」「国際的なバックボーンがあること」「ハンディキャップがあること」──などが強調され、個人のスキルや適性にスポットライトが当たらない。その人が何を考え、どんな経験を積んできたかは後回しだ。結果として、その人らしさが埋没してしまうケースが散見される。

会議における発言の均等化圧力も問題である。全員に対する平等な発言機会だけが目的化されれば、専門性や経験に基づく重要な意見が薄まってしまう。質より平等を重視する風潮が、議論の深化を阻害している現実さえある。

さらに、全従業員の画一的な多様性研修を受講させ、企業の価値観とすることで、画一的な思考パターンが生まれている。それは現代を生きるうえで必須の知識であることはいうまでもないが、そこで止まっていてよいのだろうか。目指してきた多様性は、こういうことなのか。

「正しい多様性」という新しい規範

多様性を推進する過程で、「正しい多様性のあり方」という新たな規範が生まれてしまってはいないだろうか。異なる背景を持つ人同士が協調し、相互に尊重し合う──これ自体はすばらしいことだが、その実現方法が型にはまりすぎれば、弊害となる。

たとえば、いっとき、多くのオフィスが “Googleみたい” だった。オフィスチェアの代わりにバランスボールに座り、昼寝スペースがあり、デザイン性に凝っていて、開放的でオープンだ。カラフルなソファが置かれ、卓球台やダーツボードが設置され、「遊び心のある職場」が演出される。

そこでは「自由な働き方」が推奨され、「クリエイティブな発想」が求められる。誰もが自分らしくいられる空間、という触れ込みだ。多様性を表現したオフィスではたらく、わたしたち。

もちろん、しっかり検討したうえで、これが最適解という企業も多いのだろう。実際、そうした環境でいきいきと働く人々もいる。

多様な個性に適合しなければというプレッシャー

いっぽう、従業員の立場からは、息苦しさも覚える。組織が期待する「多様な個性」に合わせて、自分らしさを演出しなければ、という息苦しさだ。

本音では、しっかり仕切りのある個室で、気軽に話しかけられないよう遮断して、仕事の世界に没頭したくても、「フリーアドレス、快適です」「みんなの様子がすぐわかるオープンオフィス、効率がいいです」と言ってしまう。本当は静かな環境で一人で考えたいのに。それを言えば、「コミュニケーション能力が低い」と思われるのではないかと恐れる。

多様性を重視するあまり、意見の対立や摩擦を嫌う文化が形成されると、表面的な調和を保つために、本音の議論が避けられてしまう。自然体でいることが難しくなる。多様性という理念が、かえって個人の負担となる矛盾が生じるのだ。いつも笑顔でポジティブだけれど、息がうまく吸えない。

本来の個性を抑圧し、組織にとって都合の良い個性を表現することが、暗黙の了解となってはいないだろうか。

真に多様な組織とは、異なる意見がぶつかり合い、ときには激しい議論が交わされる場所のはず。しかし、いつの間にか、愛すべき “エッジの効いた個性” が、削られていく。わたしもあなたも、丸くなっている。

本当の多様性は「不便」で「面倒」なもの

本来、多様性を受容するオフィスは、かならずしも快適ではないはずだ。本当に多様な人たちが集まれば、摩擦が生じるのは当然である。

摩擦のない “管理された多様性” を演出し続けることに、何の意味があるのだろう。それは誰のためなのだろう。

多様性は、「組織にとって非常に不便で面倒なもの」というのが真実であり、スタートラインだと思う。

多様な意見を真剣に検討すれば、意思決定に時間がかかり、一時的に効率が低下する。

足並みはそろわず、対立することもあり、ときにはフローもぐちゃぐちゃになり、整然とはしていないけれども、おもしろい。混乱のなかで揺さぶられ、予想外の視点が生まれ、突拍子もない発想が生まれる。

世界を変え、たくさんの人をしあわせにするようなイノベーションが、名もなき小さな会社から飛び出す。多様性がぶつかり、ミックスしたからだ。

そんな多様性のあり方を考えるとき、息苦しさは消え、心の奥にフワフワとした光を感じられる。

自分たちの不完全さを受け入れるところから多様性が花開く

では、どうすれば形式的な多様性から脱却し、本物の個性が活かされる組織を作れるのか。

企業は、まず一歩立ち止まって、完全であろうとすることをやめるべきではないだろうか。

論理的に、効率的に、最短距離で利益を上げようとしても、その企業ではたらく一人ひとりの人々は、非常に “不完全” な人間だ。その不完全さこそが、「個性」を生み出している。

優れた完璧な企業を目指すほどに、歪さは取れ、おうとつは研磨される。新幹線のようにスリムで無駄のない顔をして、「多様性」と声高に叫んでも、どこか滑稽だ。

多様性を大切にする企業なら、でこぼこした唯一無二の面構えが、かっこいい。従業員一人ひとりの個性に目を向ければ、つるんとなんてしていられない。ざらついた手触りや、ゴツッとぶつかる感触、予測不能な(ときにリスクのある)展開──そうしたものを受け入れる覚悟が必要だ。

今こそ、きれいに整理された多様性ではなく、生身の人間が持つリアルな個性と向き合う勇気を持ちたい。汚かったり、泥臭かったり、混沌としたりするかもしれない。それを「いいじゃん、おもしろいじゃん」と笑っていたい。

そうでなければ、多様性という名の画一化から逃れることはできないだろう。真の多様性は、不完全で、ときには厄介な個性たちを、寛容に受け止めることから始まるのだから。

この記事を書いた人

三島つむぎ

ベンチャー企業でマーケティングや組織づくりに従事。商品開発やブランド立ち上げなどの経験を活かしてライターとしても活動中。

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この記事を書いた人

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そしきLab編集部

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