
あなたが社会人になりたての頃を、思い出してほしい。ドキドキしながらオフィスに入り、「自分の席」となったデスクへ歩み寄って、荷物を置く。ここから、始まる。
そのとき、あなたの隣の席に座っていたのは、どんな人だっただろうか。
優しく面倒を見てくれた先輩か、ライバルのように張り合った同期か。それとも、少し苦手だった年の近い上司か──。
私にとってのその人は、5つ年上の女性の先輩だった。愛想がいいわけでもなく、雑談に花を咲かせるタイプでもない。仕事の話は的確だが、それ以外はどちらかというとそっけない。お昼は一人で食べていたし、飲み会も一次会で帰る。当時の私にとって、「隣の席にいる、感じの悪くない人」くらいの存在。
その認識が根底からひっくり返ったのは、入社2年目の秋のことだ。
親が急病で倒れた
実家の親が急病で倒れた。まだ下のきょうだいが小さかったこともあり、上司に事情を話し、急いで休暇を取って地元に帰った。病院と実家を往復する日が続き、仕事のことも気になりながら、慣れない看病と家事に追われる毎日。
そんなある日、実家に大きなダンボール箱が届いた。差出人は、隣の席の先輩だった。
箱を開けると、野菜スープのパック、レトルトのおかず、フリーズドライの味噌汁、ゼリー飲料、それからちょっといい紅茶のティーバッグが、すき間なく詰まっていた。すぐに食べられて、なおかつ体に悪くないものばかりだ。
手紙は入っていない。メッセージカードもない。ただ、宅配便の送り状の備考欄に一言、「冷蔵庫に入れなくていいものだけにしました」と。仕事で見慣れた先輩の字だった。
その一行を読んだとき、喉の奥から目頭に向かって、ぐっと熱いものがこみ上げてきた。
「大変だね」とも「頑張って」とも書いていない。ただ、私が実家でどんな状況にいるかを想像して、冷蔵庫に入れる余裕すらないかもしれないと考えて、常温保存できるものだけを選んでくれたのだ。
一人奮闘していた私は、熱いものを奥歯でかみ殺しながら、声も涙も出さずに泣いた。
隣の席の人は、選べない
オフィスの環境について語るとき、「目に見えるもの」の話がメインになりやすい。天井が高い、緑が多い、カフェスペースがおしゃれ。もちろんそれらは大事だ。だが、毎日8時間以上を過ごす場所で、自分の体験を本当に決定づけているのは、半径2メートル以内にいる「人」ではないだろうか。
しかも厄介──というか運命的でさえあるのは、隣の席の人は基本的に自分で選べない。会社が決めた座席表、あるいはなんとなくの慣習。フリーアドレスだって、結局は同じ人が同じ場所に座りがちで、事実上の固定席になっている職場は少なくない。
つまり、職場での日常体験を最も大きく左右する要素が、当の本人にはほとんどコントロールできない。会社のほうでも、そこまで考えて席を決めているわけではないことが多い。
「悪い隣人」の破壊力
私の「初めての隣人」は、深い優しさを湛えた忘れがたい人物だったが、逆パターンだってある。
隣の席の人が「合わないタイプ」だった経験のある人も、多いのではないだろうか。物音がうるさい、頻繁なため息、余計なおしゃべりが多い。そのくらいならまだ耐えられる。本当にきついのは、もっと静かな形でじわじわとメンタルを削ってくるタイプだ。
たとえば、不機嫌さを露骨に態度で表現してくる人。誰かの発言や様子を鼻で笑う人。監視しているかのように人のミスに反応する人。
こうした人が隣にいると、オフィスがどんなに美しくても、仕事に集中できなくなってしまう。出社するたびに胃がキュッとなる。日曜の夜、自席とその周辺を思い浮かべるだけで気が沈んでしまう。
実際、職場のストレスの大半は、仕事の内容そのものよりも、人間関係から発生している。そしてその「人間関係」のなかで最も影響力のあるひとつが、席が近い人々との関係だ。
明確な利害関係がなかったとしても、気にせずにはいられない。物理的な近さが、良くも悪くもオフィスの空気をつくってしまう。
優しさは、言葉の量とは関係ない
ところで、後になって不思議に思ったことがある。隣の先輩は、なぜ実家での私の状況を、正確に想像できたのだろう。
私が休暇前に伝えたのは、「親が倒れて、しばらく実家に帰ります」という一言だけだったはず。まともに食事を取れていないことは、誰にも話していない。家族のケアでくたくたになるあの感覚は、経験した人にしかわからない。それなのに先輩は、その全部を見越したかのような中身を送ってくれた。
たぶん、普段から見ていたのだろう。私が締め切り前になると昼食を抜くこと。忙しくなると痩せること。人に頼るのが苦手で抱え込むこと。
雑談もしないし、「大丈夫?」と声をかけられたこともない。けれど、いつも、私をフォローしてくれていたのだ。誰も気づかないくらいのさりげない線をキープしながら。その延長線上にあったダンボール箱。
私はあの秋、人の優しさにはいろいろな形があることを知った。そして、それを受け取れるだけの近さに、たまたま自分がいられたことの幸運も。
私も、誰かの隣の席の人だった
いっぽう、隣の先輩へ感謝の気持ちを抱くと同時に浮かんでくるのが、「私は、『善い隣の席の人』であれたのだろうか?」という疑問だ。当然のことだが、私もまた、誰かにとっての“隣の席の人”だった。
たとえば、あの先輩がいた頃、私の反対隣に後輩が座っていた。彼が残業で疲れた顔をしていたとき、私は気づいていただろうか。電話の声が沈んでいたとき、何か声をかけただろうか。
さきほど、「不機嫌さを態度で示してくるのは最悪」とばかりに、被害者ポジションで隣人評を書いたが、そんなことをいえる振る舞いだったのか?私の態度で周囲に迷惑をかけていたことは?
考えれば考えるほど、かつての未熟さが思い出され、顔が熱くなる。
それでも、先輩が助けてくれたように、自分も役に立ちたいという気持ちは持ち続けた。あのダンボール箱が教えてくれたのは、優しさの渡し方。隣の人が無理をしているのに気づいて、そっと手を伸ばす。それだけで、誰かの「つらいときを踏ん張れた理由」になれるかもしれない。
誰かの記憶に残る隣人になれるか
結局のところ、オフィスという場所には、いつも人がいる。
自分の隣に誰が座るかは選べない。でも、自分が隣の誰かにとってどんな存在になるかは、選べる。何年も経って思い出されるのは、その人の肩書きや成果ではなく、ふとした瞬間に向けてくれた小さな気遣いのほうだ。
そして、そんな気遣いが起きやすい場をつくるのも、オフィス空間の設計の仕事なのだと思う。動線を引き、照明を計算し、配置を吟味する。その先にあるのは、「人間同士が、どんな関係を築けるか」という、深い問いだ。
あの日届いたダンボール箱の中身は、とっくの昔に食べ終えた。けれど「冷蔵庫に入れなくていいものだけにしました」という備考欄の一行は、今も私の胸にある。
いいオフィスとは何かと聞かれたら、あの隣の席を思い出す。設備でも広さでもなく、隣にいてくれた一人の人を。
この記事を書いた人

三島つむぎ
ベンチャー企業でマーケティングや組織づくりに従事。商品開発やブランド立ち上げなどの経験を活かしてライターとしても活動中。
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